榛名山孝善坊の歴史

人々に誠を尽くし、心正しく生きることを説き続けてきました。

 

榛名山孝善坊

榛名山孝善坊の歴史

榛名山孝善坊は神社の外に出て、広く民衆の中に踏み入り、心正しく生きることを説いてきました。

 

また代々宿坊を営み、参拝者のお世話を行なっています。

 

鎌倉時代

先祖はすでに、鎌倉時代には榛名神社の神官として奉職していた記録が残っています。室町末期からは、榛名講の御師として加持祈祷など祭祀を御奉仕し、講の皆様と共に今日まで歩んできました。

御師とは、今風に言えば、神社の営業と広報とお客様サービスを担当する神職のことです。 

 

戦前

戦前は関東一円に講を擁し、各地を巡り、崇敬者の教化に努めるとともに、代々榛名神社宮司を輩出してきました。

 

戦後

戦後40年に渡り宮司を務めた名誉宮司神職特級山田文治大人命は、前責任役員であり、現代表の大叔父に当たります。また伊勢神宮式年遷宮委員、神道政治連盟参与を歴任しています。

 

現当主の柿添政可は1993年に神職資格を取得しました。 毎年3月と4月には、講中の農家の方々が榛名神社を参拝され、当講社にて御札を受けています。

 

 

榛名神社

榛名山孝善坊の歴史2

当講社の上位組織である榛名神社は、群馬県高崎市の榛名山麓に鎮座しています。

 

第31代用明天皇元年(西暦585年)の創祀と伝えられる延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)記載の式内社であり、格式の高い神社です。また夫婦神である火の神様の火産霊神と、土の神様である埴山毘売神を主祭神としています。

天下泰平、国家安穏、鎮火、開運、家内安全、五穀豊饒、商売繁昌、縁結び、安産守護の御神徳を仰ぎ、古代山岳信仰の要地となっています。

 

また呪術者として知られる役小角(えんのおづの)が2年間籠った修験道の行場を擁し、中世からは榛名山を信仰する榛名講の本山として、関東一円の農家の方々の篤き崇敬を集めています。

最近では、いわゆるパワースポットとしても、その名が知られています。

 

戦国時代以降

戦国時代は資金不足もあり、社殿は荒れた状態でした。しかし徳川幕府の命により、榛名山一帯の神域は天海僧正によって再興されました。 天海僧正は、江戸の街に結界を張り巡らせて守ったとされていますが、赤城、榛名、妙義からなる上毛三山を北の結界と定めました。その中でも榛名山を重視し、慶長19年(1614年)には「上野国天台宗榛名山巌殿寺法度之事」を発布、寛永2年(1625年)には寛永寺がスポンサーとなり域内の整備が進みました。

 

榛名神社の現存する社殿はすべて江戸期に建てられたのです。当時は神仏習合の時代であり、寛永寺末の中里見光明寺が学頭、榛名山満行院が別当に任命されました。 後には両職とも光明寺が兼務となり、榛名山光明寺と称されていたこともありました。

 

維新後

維新後、慶応4年(1868年)3月に神仏分離令が出され、同年5月、東山道鎮撫総督より鎮撫軍に恭順すべしとの通達を受けました。そこで榛名神社においても神仏分離が進むこととなったのです。7月には御師による会議の結果、8月末日に寺院の解体、仏像が撤去されました。9月には光明寺との間で設備一式の引き渡しが行われ、榛名神社として独立しました。

 

以来今日に至るまで、中世より続く榛名講の伝統を守り、広く民衆の間に分け入って、神道教化を行い敬神崇祖の教えを広めてきたのです。

 

第二次世界大戦

先の大戦において、榛名神社の御祭神火産霊神を祀った巡洋戦艦「榛名」は、主要海戦に従軍し、米国海軍と死闘を繰り広げました。何度となく被弾するも決して沈没することなく、終戦まで生き残った数少ない艦艇として、榛名の大神様の御稜威を今に伝えています。戦後、榛名の艦運の強さにあやかり、海上自衛隊護衛艦「榛名」がいち早く復活したことは記憶に新しいところです。

 

 

年表

鎌倉時代末期 先祖が榛名神社神官として奉職していた記述あり。
室町時代末期 榛名講の御師として講の育成と教化活動を開始。
江戸時代

神仏習合により神官と僧侶を輩出。

関東一円に講を擁し多数の参拝者の案内とお世話を行なう。同時に榛名神社宮司を多数出す。

明治維新後 神仏分離令により僧侶兼務を取り止める。講の育成と宮司の輩出が続く。
1954年 宗教法人格取得。
1993年 現当主、柿添政可が神職資格を取得。
1994年 柿添政可が代表役員に就任。
2016年 男性専門の婚活カウンセリング・スクール・結婚相談所 榛名山孝善坊を設立。

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